有為無常

思うことつらつら

煙草

 

わたしは煙草を吸っている所作そのものがとても美しくて好きです。

煙草を挟む指先、そして、息を吸い込むたびに赤くふくらむ先端の灯り、そこから燻るやわらかな煙、ふう、と深い息の音、細くまっすぐ吐き出すと空に消える薄透明の紫、身体に悪いなと分かる、少し不愉快でそれでいてどこか心地よい匂い。

加えて、煙草を身体が欲してしまう、人間の弱さもどこか美しく感じます。

わたしは煙草というものがとても好きです。

 

谷川俊太郎氏の「煙草の害について」という詩があります。

公園に吸殻を散らかし

家じゅうに灰を落し

ズボンに焼焦をつくり

空気をよごし

ライターに無駄金を使い

爪も歯もきいろく染め

風邪をこじらせ

あげくの果に肺ガンになり

いいことは何ひとつないのに

世界じゅうの人間が

国境を問わず人種を問わず好むという

人間の人間らしさのおろかな証し・・・・・・

だが私はとりわけこうした

非衛生的な人類というやつがいとしい

 

まさに。

人間は好きか嫌いかと言われると嫌いですが、そういった弱さについては美しくて愛しく感じてしまう感性が自分にはあります。

 

煙草が好きなのは昔からで、幼い頃から父が吸う時にこっそりそばに行って、大きく息を吸ってみたりしたものでした。

二十数年生きてしまうといろいろなことがあり、父の吸う煙草の煙の匂いは苦手になってしまいましたが、それで安心していたあの頃の情景は今も思い出せますし、煙草の煙で心が安らぐ感覚は今でも変わりません。

長く隣にいることになった恋人は皆喫煙者であるのもそういった影響があるのでしょうか。

 

そんなわたしがはじめて煙草を吸ったのは21歳の時です。

イケイケギャル(死語)の美人な友達と立ち寄ったカフェで、煙を燻らせる彼女に見とれていたら、「どうしたの、いる?」と言われて、一本いただいたのが最初でした。それまでは誰かの吸う煙草の煙を隣で嗅ぐ程度で、自分が吸うことはありませんでした。

火を付けてもらって、煙草を通して空気を肺に入れ込んだ時、外から感じていたあの匂いが身体の内側まで広がって。心地よく。

さぞ気持ち悪い女だったことでしょう。

それまでにも、煙草を吸う機会というのはいつでもそばにありました。中学生の頃だって。高校はお嬢様校予備軍みたいなところだったので環境的になかったのですが、大学に入ってからだって。

ではなぜ吸わなかったのか、というと、如何せん真面目なので、未成年の頃は法令遵守が念頭にありましたし、なによりわたしにとって煙草は少し特別なアイテムだったことが大きな要因でした。

法令遵守とはいいましたが、歳をとることは高校生になった頃合からとても嫌なことだったので、成人する楽しみとしてそれまで吸わずに取っておいた、というのが本当のところです。

そういった気持ちで他の歳の誕生日に比べると比較的心待ちにしていた20歳を迎えました。ところが、それまで機会はたびたび訪れていたのに、吸えるようになってからの縁が薄かったんですよね。その彼女がわたしに煙草を渡すまで自分の指に煙草を挟む機会がなかったのです。

それからは時々吸うようになったのですが、皮肉なことに煙草はわたしの身体にあまり合わないので、弱い煙草を家に置いてはいるものの1箱吸うのに数ヶ月かかっています。持ち歩かないので、喫煙者といる時にもらい煙草をさせてもらう程度の喫煙頻度です。

 

余談ですが、わたしは線香の匂いも好きで、お盆や法事の時は仏間で何度も深呼吸をするような変な子供でした。

 

はい。なぜ今日、突然煙草の話なのかと言いますと、『もうすぐ絶滅するという煙草について』という書籍を読んだからなのです。

発売した頃から気になっていて、ようやく手に入れました。

冒頭の谷川俊太郎氏の詩も載っています。

この本は三部構成になっていて、今その一部目と、気になる著者の部分をピックアップして読み終えたところです。

 

煙草を吸う瞬間のことを皆がそれぞれの表現をしていて、そこが特に、言葉が好きなわたしとしてはおもしろく感じた部分です。オムニバス形式の書籍はそこがよいところですよね。

同じ行動、同じ物質について述べているのに、ある人は詩的に表現したり、ある人は社会的なことを踏まえて語ったり、医療的な話になったり、本当にさまざまで。ひとつのものは見る人間の数だけ姿かたちを変えるものであることがわかります。


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こちら、その本の裏表紙側に来る帯ですが……近年稀に見るレベルのいい帯ですね。好きです。

ならば、健康を害する危険性が高い人生の方が豊かである可能性があるのでは?なんて考えてしまいます。無駄が人生を彩り、危険や無益なことにこそ誘惑されるのが人間の性。

 

そして、本書の中で池田晶子氏が下記のようにおっしゃっていました。

健康に生きることは権利だ。しかし、その「生きる」とはそもどういうことであるのかを、あなたは考えたことがありますか。

たばこを喫まず、酒も飲まず、野菜ばかり食べてジムへ通う。そういうツルンとした人々の姿が浮かぶ。(中略)なるほど、けっこう。で、何のための人生なのですか。健康に生きるために健康に生きる、その健康な人生は何のためのものなのですか。

健康が人生のすべてではない、と、わたしも考えています。

もちろん豊かさや人生を彩るものというのは、健康という基盤があってこそ手に入れられるものばかりなのかもしれませんが、健康でいることというよりは「健康になること」ばかり気を取られていては元も子もないと思います。健康はあくまで基礎の部分、前提の部分であるはずが、そのために生きてしまうのでは勿体無い。

ひとによっては健康であることよりも重視していることがあるかもしれない。誰もひとの生き方を非難してはいけないし、迫害してはいけないものです。

健康な人生は何のためのものなのですか、そうだ、もっとこの言葉よ世間に届け。という気持ちになりました。わたしは嫌煙社会大反対です。

 

それともうひとつ。久世光彦氏の文章の最後にあった、

死ぬまで──それも、なるべく長いこと、煙草を吸いつづけて生きようと思った。

という言葉。この前向きさ。

生命エネルギーを使う手段としても喫煙が残っててほしい。煙草が煙たがられない(ダブルミーニングだ……)社会になってほしい。

社会全体の健康志向はどこか気味悪さを感じますし、健康志向も強くなく、好きなことをして早く死ねた方がいい!といった趣旨の少し厭世的な発言をする人間を無条件に愚かだとする風潮も断ち切られてほしいものです。うんざりします。

健康に生きる権利を主張する方々がマジョリティかもしれませんが、そうじゃない権利だってあるはずで、その選択はどうであれ尊ばれて然るべきですから。

誰の生き方も大切にし合うためには、無理に同じ空間で共存しなくてもよいはずなのに。

 

この本、

紙巻の煙垂るる夜長かな 芥川龍之介

という句から始まっています。

明日はお休みなので、わたしもこの後一服して、今夜は長く(永く)過ごそうと思います。

 

 

2018/05/29 深依