夏の匂い
いやあ、今夜も気温が高いですね。
眠り薬がなかなか効かないのでもう一本。本日は美術館と喫茶店に行っただけではないのですよ、というお話をさせてください。
実は、美術館・文学館に行くために出かけるという大義の他に、歩いている時間に対して、ひとつの目的を設けていたのです。
それは、夏の匂いに出会うこと。
お仕事をしている間は、職場の最寄りに着いてからの通勤ルートが完全に地下で、かつ、仕事場自体にも窓がない環境なので、外と切り離された生活を余儀なくされていました。
自宅と、自宅の最寄り駅までのたった5分、往復10分だけが外界の様子を知れる時間でした。(そりゃあそれだけ太陽に当たらない生活だと、元々強くもない身体も心も壊れますよ……)
気付けば、夏の匂いを仄かに感じて酔いしれる間もなく、もういよいよ夏到来という気候になっていました。毎年気付いた頃には完全に季節が移り変わっていて驚きますが、今年は梅雨すら感じずに夏が来てしまいました。豪雨のあの辺りの時期を除いて、雨だったのかどうかは地面の湿り具合でしか感じていなかった気がします。本当に、ほとんど雨に当たることなく夏がやってきました。
そして、毎年少しずつ夏の匂いを感じながら夏本番を迎えていくのに、今年は夏の匂いとかそんなぬるいこと言ってる場合じゃないぞ、と、地球が例年よりも本気で夏を仕掛けてきているようですね。
わたし自身、暑さの耐性が強いので、気温自体は大して苦痛でもなんでもないんですけども、今年は異常なほどの酷暑だそうで、全国各地で大変な被害が出ていますね。日陰だと心地よくて、わたしにとっては適温です。まだ当分は温暖化が進んでも夏を耐え抜けそうです。
被害といえば、今年は心做しか、地震に大雨などの自然災害も多いですね。かくいう私も神戸に住んでいるので、先日の大阪北部の地震の際、被害はなかったのですがかなり揺れました。
* * *
話がそれてしまったので夏の匂いの話に戻します。
本日はそんなこんなで日々感じられていなかった夏の匂いを集めたくて、それをお散歩の目的に設定したというわけです。この際せっかくならば、ね。
出会った夏の匂いたちの写真を撮ったので、それを抜粋して載せてみます。
まず、1枚目はこちらです。
ナンテン?のような実の先にセミの抜け殻がついていました。この植木にはとてもたくさん抜け殻がついていて、小学生くらいの頃のわたしに知らせたら飛んで行っていたであろうセミの抜け殻スポットでした。
セミといえば、わたしは冷房が苦手なのでひとりで寝る時は窓を開けて、扇風機をかけて眠るのですが、夏の間はセミの大合唱で早朝に目が覚めます。これももう今頃はぼちぼち聞き慣れてきた頃ですが、セミの声が聞こえ出すと、「あ、夏だな」と思います。抜け殻だけでなく、鳴き声も夏の匂いのひとつですよね。
そんなセミの大合唱といえるような、アブラゼミやクマゼミ、ミンミンゼミが鳴き始めるのはだいたい朝の7時半から8時頃。
日も昇りかけの仄暗い時間帯は、我が家の周りではヒグラシと小鳥の鳴き声がしていますよ。わたしはそんな時間帯の方が好きだったりするので、たまに寝付けなくて朝が来てしまった時はそういった声や音を静かに聞いて過ごしています。
正直、アブラゼミたちはうるさくて嫌いだったのですが、歳を重ねるごとにそんなこともなくなってきました。不思議なものです。
続いて2枚目です。
次は萎れたひまわり。
暑くて参ってしまったのでしょうね。
ひまわりといえば、小学生の頃、家族とひまわり畑を見に行ったことがあります。背の高いひまわりを利用して、敷地全体迷路になっていました。
迷路の中でのことは何も覚えていないのですが、そのひまわり畑をバックに両手を広げて、おへそを丸出しにしているわたしの写真が確かあったなということを思い出しました。至極どうでもいい、だから何?トークでしたね。すみません。
最後はこちら。
なんて大胆なおとしもの。
思わずシャッターを切りました。はやく持ち主が見つかるといいなあ……
夏の匂いなのかは微妙なラインですが、個人的にこのサンダルが本日の優勝でした。黄色のビーチサンダルは片足なのがまたなんとも。
それにこれ、小さな地元のパン屋さんの前にあったのです。恐らく、そこの店員の方が書いたのでしょう。現代的な言葉で言うと、エモい……エモすぎます……
この3枚が本日わたしが出会った夏の匂いたちです。
いかがでしたでしょうか!……なんて。
余談になりますが、この前、住んでいる近くで自治会のお祭りをしていました。数年ぶりにかき氷を食べたのですが、これも夏の匂いがしてよかったなあ。
夏って、香りじゃなくて匂いって言葉の方が似合うと思いませんか。夏の香りはないけれど、夏の匂いはあるような。うまく言えませんが(笑)
四季の中でもわかりやすく“らしさ”が散りばめられていて、たくさんの匂いに出会うことのできる夏。毎日少しずつ季節を感じて、豊かに過ごしてゆきたいものですね。
なんといっても平成最後の、夏だそうですから。
2018/07/26 深依
幕間
最近のわたしは物語の幕間のような、そんな時間を過ごしております。
といいますのも、数日前からわたし、お仕事に行けなくなってしまい、まさに休止期、日常生活を一時中断しているのです。
休暇日を日常に含めないような言い方をしましたが、日常のサイクルは(悲しいことに)労働で回っており、その間わたしは一生懸命、求められた役に対して不足しないように努めて(勤めて)いるわけです。
幕間こそが日常生活だと言えればよいのですが、すっかり労働者の社会に染まってしまって、休暇日をは“日常”をお休みしている、という感覚なのです。
その“日常”という演劇の幕切れ、という意味で使いました。
今よりも調子の悪い時は耐えられていたのに、今になって突然ガタが来てしまったのはこの暑さのせいでしょうか。
とりあえず1週間の期限付きですが、お休みをいただくことになりました。
ゆっくりと過ごそうと思っているのですが、どうしても復帰後のことを考えてしまったり、休むにあたって必要な手続きなどで連絡を入れなくてはならなかったり、病院へ何度も足を運んだりして結局こころは休まらず、わたしの中身は何も変わらないままに時間だけが過ぎてしまっている状態なのですけどね。
睡眠も、食欲も、薬に頼ってやっと体が成り立っているこの感じ。良くないですね。
恋人には、※絶賛夏バテ中 ということにして、日中の連絡も、仕事の時ぐらいの頻度にしてごまかしているけれど騙せているかしら。
最初に休んだ日は見事にバレてしまいましたが、それ以降は働いている素振りで頑張っています。(?)
かかりつけの先生に、「散歩だけは毎日するようにしなさい」と言われたので、その言いつけを守って外出し、ただいま、わたしは小さな喫茶店におります。
サイフォンで煎れてくださったオリジナルブレンドのアイスコーヒー、とても美味しい。手作りのチーズケーキもレモンの風味とクリームチーズの酸味が絶妙でとっても美味しい。食に関心が薄いと、味を褒める語彙力がなくてこういう時に少し悔しくなりますね。美味しいんです。
あ、ご覧になってください。とても美味しいです。
本日はですね、本来の予定であれば、今頃文学館で本を読んでいるはずだったのです。
まずは某現代美術館へ行き、その後に文学館へ足を運ぶ予定で家を出ました。
涼しい中で静寂と芸術を堪能してきました。
完全な静寂って、今時お金を払わないと買えませんからね。有意義でした。
さあ、このあとは夕方まで文学館で読書に耽るぞ、と学芸員さんに会釈して、外に出たところまでは予定通りだったのです。
それなのになぜここでブログを綴っているのかといいますとですね、いざその文学館へ足を運んでみると入口が鉄の門で閉ざされていましてですね、その奥に「休館日 水曜日」の立て看板が……
美術館の休館日しか調べていなかったのが敗因です。悔しい。
完全に手持ち無沙汰になったのでどうしようかなと街をぶらぶらしていたのですが、如何せん体力がないので、暑いのは問題なくても頭がふらふらとしてきました。
文学館で読む予定でしたので、手持ちの本もないし、もうこのまま帰ろうかと思ったところで目に留まったのがこの喫茶店。いいところに現れてくださいました。
おかげで美味しいコーヒーをいただきながらこのブログを書けています。
6月末頃からまた文章もうまく書けなくなってしまっていたので、久方ぶりの更新になりました。
皆さんお元気でしたでしょうか。
最近の出来事といえば、仕事をお休みしていることと、小さい外来やもりを飼い始めたことでしょうか。
またやつについては追って書かせていただきます。
それでは、ユーミンでも聴きながら、また散歩の続きに戻ろうと思います。
わたしの街、松任谷由実さんの曲がとっても似合うんです。個人的に思っているだけですけど、素敵でしょう?
皆様も熱中症等にはくれぐれもお気をつけて。
元気に夏を乗り越えられるといいですね。
2018/07/25 深依
煙草
わたしは煙草を吸っている所作そのものがとても美しくて好きです。
煙草を挟む指先、そして、息を吸い込むたびに赤くふくらむ先端の灯り、そこから燻るやわらかな煙、ふう、と深い息の音、細くまっすぐ吐き出すと空に消える薄透明の紫、身体に悪いなと分かる、少し不愉快でそれでいてどこか心地よい匂い。
加えて、煙草を身体が欲してしまう、人間の弱さもどこか美しく感じます。
わたしは煙草というものがとても好きです。
谷川俊太郎氏の「煙草の害について」という詩があります。
公園に吸殻を散らかし
家じゅうに灰を落し
ズボンに焼焦をつくり
空気をよごし
ライターに無駄金を使い
爪も歯もきいろく染め
風邪をこじらせ
あげくの果に肺ガンになり
いいことは何ひとつないのに
世界じゅうの人間が
国境を問わず人種を問わず好むという
人間の人間らしさのおろかな証し・・・・・・
だが私はとりわけこうした
非衛生的な人類というやつがいとしい
まさに。
人間は好きか嫌いかと言われると嫌いですが、そういった弱さについては美しくて愛しく感じてしまう感性が自分にはあります。
煙草が好きなのは昔からで、幼い頃から父が吸う時にこっそりそばに行って、大きく息を吸ってみたりしたものでした。
二十数年生きてしまうといろいろなことがあり、父の吸う煙草の煙の匂いは苦手になってしまいましたが、それで安心していたあの頃の情景は今も思い出せますし、煙草の煙で心が安らぐ感覚は今でも変わりません。
長く隣にいることになった恋人は皆喫煙者であるのもそういった影響があるのでしょうか。
そんなわたしがはじめて煙草を吸ったのは21歳の時です。
イケイケギャル(死語)の美人な友達と立ち寄ったカフェで、煙を燻らせる彼女に見とれていたら、「どうしたの、いる?」と言われて、一本いただいたのが最初でした。それまでは誰かの吸う煙草の煙を隣で嗅ぐ程度で、自分が吸うことはありませんでした。
火を付けてもらって、煙草を通して空気を肺に入れ込んだ時、外から感じていたあの匂いが身体の内側まで広がって。心地よく。
さぞ気持ち悪い女だったことでしょう。
それまでにも、煙草を吸う機会というのはいつでもそばにありました。中学生の頃だって。高校はお嬢様校予備軍みたいなところだったので環境的になかったのですが、大学に入ってからだって。
ではなぜ吸わなかったのか、というと、如何せん真面目なので、未成年の頃は法令遵守が念頭にありましたし、なによりわたしにとって煙草は少し特別なアイテムだったことが大きな要因でした。
法令遵守とはいいましたが、歳をとることは高校生になった頃合からとても嫌なことだったので、成人する楽しみとしてそれまで吸わずに取っておいた、というのが本当のところです。
そういった気持ちで他の歳の誕生日に比べると比較的心待ちにしていた20歳を迎えました。ところが、それまで機会はたびたび訪れていたのに、吸えるようになってからの縁が薄かったんですよね。その彼女がわたしに煙草を渡すまで自分の指に煙草を挟む機会がなかったのです。
それからは時々吸うようになったのですが、皮肉なことに煙草はわたしの身体にあまり合わないので、弱い煙草を家に置いてはいるものの1箱吸うのに数ヶ月かかっています。持ち歩かないので、喫煙者といる時にもらい煙草をさせてもらう程度の喫煙頻度です。
余談ですが、わたしは線香の匂いも好きで、お盆や法事の時は仏間で何度も深呼吸をするような変な子供でした。
はい。なぜ今日、突然煙草の話なのかと言いますと、『もうすぐ絶滅するという煙草について』という書籍を読んだからなのです。
発売した頃から気になっていて、ようやく手に入れました。
冒頭の谷川俊太郎氏の詩も載っています。
この本は三部構成になっていて、今その一部目と、気になる著者の部分をピックアップして読み終えたところです。
煙草を吸う瞬間のことを皆がそれぞれの表現をしていて、そこが特に、言葉が好きなわたしとしてはおもしろく感じた部分です。オムニバス形式の書籍はそこがよいところですよね。
同じ行動、同じ物質について述べているのに、ある人は詩的に表現したり、ある人は社会的なことを踏まえて語ったり、医療的な話になったり、本当にさまざまで。ひとつのものは見る人間の数だけ姿かたちを変えるものであることがわかります。
こちら、その本の裏表紙側に来る帯ですが……近年稀に見るレベルのいい帯ですね。好きです。
ならば、健康を害する危険性が高い人生の方が豊かである可能性があるのでは?なんて考えてしまいます。無駄が人生を彩り、危険や無益なことにこそ誘惑されるのが人間の性。
そして、本書の中で池田晶子氏が下記のようにおっしゃっていました。
健康に生きることは権利だ。しかし、その「生きる」とはそもどういうことであるのかを、あなたは考えたことがありますか。
たばこを喫まず、酒も飲まず、野菜ばかり食べてジムへ通う。そういうツルンとした人々の姿が浮かぶ。(中略)なるほど、けっこう。で、何のための人生なのですか。健康に生きるために健康に生きる、その健康な人生は何のためのものなのですか。
健康が人生のすべてではない、と、わたしも考えています。
もちろん豊かさや人生を彩るものというのは、健康という基盤があってこそ手に入れられるものばかりなのかもしれませんが、健康でいることというよりは「健康になること」ばかり気を取られていては元も子もないと思います。健康はあくまで基礎の部分、前提の部分であるはずが、そのために生きてしまうのでは勿体無い。
ひとによっては健康であることよりも重視していることがあるかもしれない。誰もひとの生き方を非難してはいけないし、迫害してはいけないものです。
健康な人生は何のためのものなのですか、そうだ、もっとこの言葉よ世間に届け。という気持ちになりました。わたしは嫌煙社会大反対です。
それともうひとつ。久世光彦氏の文章の最後にあった、
死ぬまで──それも、なるべく長いこと、煙草を吸いつづけて生きようと思った。
という言葉。この前向きさ。
生命エネルギーを使う手段としても喫煙が残っててほしい。煙草が煙たがられない(ダブルミーニングだ……)社会になってほしい。
社会全体の健康志向はどこか気味悪さを感じますし、健康志向も強くなく、好きなことをして早く死ねた方がいい!といった趣旨の少し厭世的な発言をする人間を無条件に愚かだとする風潮も断ち切られてほしいものです。うんざりします。
健康に生きる権利を主張する方々がマジョリティかもしれませんが、そうじゃない権利だってあるはずで、その選択はどうであれ尊ばれて然るべきですから。
誰の生き方も大切にし合うためには、無理に同じ空間で共存しなくてもよいはずなのに。
この本、
紙巻の煙垂るる夜長かな 芥川龍之介
という句から始まっています。
明日はお休みなので、わたしもこの後一服して、今夜は長く(永く)過ごそうと思います。
2018/05/29 深依
一億総活躍社会
こんにちは。
今日はお休みなのでゆっくりと体を休めています。
そして明日からまた働いて、活躍しなければ。一億総活躍社会ですからね。
一億総活躍社会とは言うけれど、わたしは「日本の人口みんなが活躍して、輝いていける社会」ではなく、「日本の人口みんなが活躍しなければ継続できない社会」という意味なんじゃないかな、と思っています。
正直そんな国家さっさと潰れてしまえとも思うことがあります。なんて破滅的な思想。良くないですねえ(良くないですねえ……)
わたしの家(ひとり暮らしのマンション)にはテレビを置いていないのでニュース番組も見ませんし、新聞もアプリ版の経済新聞をたまに読む程度ですし、学問としても政治・経済には触れていないので、そこまで明るくないのですが、社会のことを知れば知るほど絶望を叩きつけられて、わたしたち、労働者世代がどれだけ蔑ろにされているのかを思い知ります。
そして、声を上げたところでわたしたちの声が届くことはないと考えてしまう人の多さたるや。
投票年齢を引き下げてもなお、若者の投票率が低いままであることが裏付けていますよね。わたしもその気持ちはわかります。
学校の授業等でもっと現在の政治・経済に触れてもいいのでは……
教育の話になると日が暮れて夜が明けそうなので割愛しますがなんといいますか、考える力、考えるために必要な材料をそもそも持ち合わせていない若者も多いと思います。若者に限らずかもしれませんが。
自分の身の回りのことがわかっていない、打開の仕方もわからない、そんな状態であることをうまく使われ、苦しい状況に置かれて、都合よく消費されているのが現実なのではないでしょうか。
最近わたしは社会への絶望感が一周回って、どうせわたしたちが犠牲になるのは避けられないのならば、今の子供たちが大人になった時に良くなっていればいいのに、と思うようになりました。それについて友人とたまに話すと、いつも投げやりな気持ちの議論になって終結してしまうのですが……
この発想はネガティブの中のポジティブといえばそうかもしれません。しかし至極悲観的で自己憐憫に満ちていて気持ちの悪い発想とも思えます。偽善っぽくて。他人のために自分が犠牲になるわよ、かわいそうでしょ、って言っているようで。我ながら寒気がします。こういう趣旨の発言をする人間は信用出来ないので自分からその発想が生まれたのに驚きました。
しかし、なんでここに至ったのかを掘り下げてみてわかったんです。この発想の出どころは善の気持ちではなくて、ただ無駄が嫌いなだけでした。
どうせ変わらないわたしの現状があるならそれにも意味を与えられたいと、変える努力をせずに諦めているだけなくせに傲慢ですが、そう思ってしまいます。無駄なら苦しみたくないですもの。苦しむから無駄にしないで、それだけでした。
だから、わたしたちが虐げられている現状を未来に還元できればいいのに、と思うようになったというわけです。
まあ、なんだかんだと言ったところで今は誰もがみんな目先の生活に必死で、未来なんて到底考える余裕を持ち合わせていないというのが現状な気がしますが……
わたし(たち)のつらさや社会からの不憫な扱いが意味のあるものになるかどうかを決めるのは悔しいけれど政治家の方々。
無責任に、もうわたしたちのことはおまかせしまーす!状態ではありますが、セクハラだなんだとか、揚げ足の取り合いじゃなくて、目先のことに必死な国民に代わって、もっと未来を考えてほしいなと思います。それがお仕事なんだから。
わたしはわたしで今の生活をどうにか、もう本当にとにかくどうにかして、苦しい理由じゃなくて「しあわせ」とか「うれしい」を言語化していける状態になりたいです。う~
2018/05/14 深依
葉桜
新生活がはじまってから数週間が経とうというところですね。
4月の頭には出社を演出してくれていた桜もすっかり緑色が増え、葉桜になりました。
もう散ってしまったのか。はやいよ…… もっと桜吹雪で朝から気持ちよくオンステージな気分で歩かせていてほしかった……
ところで、私事ですが、この春から配属された職場の環境が最悪で、仮に桜が舞い散っていようとプラスに巻き返せないぐらいに参っています。
わたし、自分で言うのもなんですが、ストレスに対してめちゃめちゃ強靭だったんですよ、ある時までは。「それ(ストレスがあること)が当然だ」と思いながら行動すると、不思議なことに、疲れはしますが負のストレスは感じませんでした。強かった。
ドロドロした気持ちもネットの海に放出すればすっきり!明日からも頑張ろう!系だったのですが、いつしかそれも効果が薄れて引きずるようになりました。情けない大人の事情です。
そう。引きずりに引きずって、蓄積されていくのに解消する術(日曜日、問答無用で出勤になり、めずらしく恋人が誘ってくれた久しぶりのデートがなくなってしまった)もなく、今週は特に毎日ズブズブです。
魂の疲弊はすべてを悪い方向へ向かわせる気がします。
実際わたしはなんだか全部うまくいきません。
好奇心旺盛なひとのそばにいることで楽しいを疑似体験してみたりしていたのですが、それにすら興味を抱けなくなってきて他人の布団で死んだように虚空を見つめるという時間が4月になってから数度あるわけで。
家にいても突然悲しい気持ちが襲ってきて涙が出ることもありますし、四六時中、苦痛に支配されている感覚があります。
ストレスからふっと解放されるにはどうすればいいのでしょうか。
そんな時、仏陀は「感情のない状態」になることがストレス解消への第一歩だというのです。突然仏教の教えっぽいことをぶちこんできてなんだって話ですけども。
わたしは宗教学に明るいほうではありませんので完全に理解はしていませんが、仏教のなかの、いわゆる「空(くう)」という考え(の一部)ですね。
負の気持ちを晴らすには楽しいことをするべし、と思いつくのが常人ですが、感情をマイナスにもプラスに振らない、ニュートラルな状態であることが一番であるというのです。
しかし、「無」であることの難しさたるや。
「無」であろうとしても心のどこかがズキズキして、勝手に涙がボロボロ出てくる。そんなではまだまだ「無」には程遠いですよね。
とにかく繋ぎ止めるのに必死ですが、しっかり心を据えて、「無」の時間を作りつつ、頑張ります。(宣言)(自己暗示)
(とても個人的な内容の更新でした)
2018/04/20 深依
雨降り
はじめまして。深依(みい)といいます。
ここでは日常生活を送っていてふと思ったことや、わたしの中にある日常への違和感などを吐露していきたいと思います。
どうしても自分語りが中心になりますが、読んでいただけると嬉しいです。
春が近付いてきているのを肌で感じる気候になってきましたね。
全国的にも道の脇に黄色や白がぽつぽつ見えてきたかな、という頃ですよね。家の近くの公園にある梅の木も、わたしが見るたびにつぼみをおおきく膨らませて、春を待ちわびているぞオーラをびんびんに出しています。
今日いぬを連れて散歩に出かけた時に見てみると、ついにその梅の木にも濃いピンク色の花がちらほらと。いよいよなのかしら。
その調子で朝晩の冷え込みも花の開きとともにぱーっとどこかへいってほしいものです。
春が来るに伴って、新しい生活の準備を整えている方も多いのではないでしょうか。
特に3月ははじまりに向かう別れの季節。わたしもたくさんのさようならをしました。個人的に今年は前向きなお別ればかりなので、あたたかな気持ちで日々を過ごしています。
……まあ今はそんなあたたかな涙よりも花粉。花粉ですよ。わたしはスギの花粉症なので、例年のごとくあらゆる粘膜がずるずるのでろでろになっています。つらい。
もうこの時期になってしまえば、明日はいい日になるかなだとかそんなことを考える余裕もなく、毎日花粉のことで頭がいっぱいです。
天気予報を見ても、天気よりも花粉の飛散量ばかり気になってしまう。明日も晴れるのか、飛ぶな……と思いながら眠りにつく日々です。
もともと雨は好きなほうですが、この季節は特に降れ!降ってくれ!と思ってしまいます。
晴れた日だってぽかぽかと気持ちよくて好きですが、今はそれどころではない。目と鼻と喉の痒みが思考にまで影響を及ぼしてくるんですもの。やってらんない。
……そんなわたしの願いは届かず、明日も晴天だそうです。あたたかくなるらしいですよ。
がんばろうニッポン。がんばろうわたし。
ということで、これからよろしくお願いします。
2018/03/12 深依(みい)